高校時代の青春の1ページ。私の通っていた高校の文化祭はちょっと変わっている。入学する前は知らなかったのだが全学年・全クラス演劇なのだ。文化祭の演劇で何をするかクラス全員で話し合い、演目が決まれば脚本や演出、照明、音響、小道具・大道具、役者と決めていく。当たり前だが全てを生徒で作り上げる。「面倒くさいのはごめんだ、絶対に目立たず出来るだけ楽な役割をやる」これが当時の私の文化祭への対し方だった。文化祭へのだけではなく、全ての物事に対する私のマインドだった。一年生の時は初志貫徹で照明をゲットした。ただやってみると、お客さんの席づくりや暗幕の調達・セッティング、外部業者から舞台道具を借りてきたり等々、案外面倒で、正直大変だな嫌だなと思いながらやっていた。極力参加したくなかったし、極力距離をとっていた、とにかく私という存在をかき消すようにしていた。もちろん劇の出来など全く気にかけておらず、自分のクラスの演劇がどうやらあまり上手くいかなかったらしいと知っても特に何も感じなかった。
しかし一年後、ひょんなきっかけから役者になってしまった。もちろん、照明か音響か道具係をやる気満々でクラスミーティングに臨んだのは言うまでもない。ところが、その年に候補となった演目、あろうことかその最有力候補の1つが私の最も好きな映画だったのである。クラスメイトからその映画の名前が上がった時は相当驚いたのと同時にかなり前のめりになった。もう一つの候補に上がった映画は知らなかったのだが、どちらに決まるのか興味津々。たとえ私が知らなかった方の映画でも、大好きな映画と肩を並べるほどの映画なのだから素晴らしい作品に違いない、と完全に入れ込んでいた。そしてその頃には照明や道具係という選択肢はかなり後方に下がっていた。誰しもが想像したことがあると思う。好きな映画の中に自分が存在しているところ、好きなアニメの中に自分が存在しているところ。もしくは、自分が主人公や登場人物に成り代わってその作品の中で活躍する姿。それが今、実現可能、思いもよらず自分の手の届くところにあるという感覚。この作品なら、役者、ちょっとやってみたい、、、ちょっと前までのスーパー消極人間はいつの間にか消え去っていた。
クラスメイトそれぞれの役割も決まりいよいよ文化祭まで作品作りに全力投球。映画を何度かみて自分の役の所作や雰囲気づくり、脚本が書いた本でセリフのチェック、劇の流れをしっかり頭に入れる。放課後、夕方からクラスの大半が学校近くの広場に集まる。演者も脚本も照明も音響も夜遅くまで練習と打ち合わせ。帰り道に仲間で夕食。まさか。まさかこんなにも楽しい時間があったなんて。高校生活をこの時ようやく実感できた。
面倒くさがりだったはずなのに。こんな煩わしいこと避けていたはずなのに。自分を顕示などしない、目立たず、矢面にたたず、巻き込まれずがもっとうだったはずなのに。今を無視してやり過ごし、想像の中で煌々と輝く未来が来るのをただただ待っていただけなのに。無難に過ごすことが一番だったはずなのに。成り行きでなってしまった演者。自分という個性をかき鳴らしながら学友と共に一つのものを創り上げる。たったそれだけなのに異常なまでに時が輝いていた。共に重ねた時間が私を今というこの場所に引き戻した。
十人十色の叡智、みんなの存在、私の存在、思いを一つに皆が個性をかき鳴らす。今この時に全集中を傾けて。私も夢中でかき鳴らす。果たしてそれらは調和し絵も言われぬハーモニーとなった。これは一人では味わえない奇跡的楽しさ。劇を観た先生が泣いている。文化祭の最後は抱えきれないほどの喜びで奇跡的な時間だったんだと気づく。一人では絶対味わえない、個性を掻き鳴らせる仲間との奇跡の時間。ひょんなきっかけで演者になったことで気づけた。
かき鳴らしてもハーモニーが生まれないこともあるかもしれない。不協和音に終わることもあるかもしれない。むしろそうなることの方が多いのだろう。でも、自分をかき鳴らして初めて味わえるこの奇跡のハーモニーは何物にも変え難い喜びとして今も私の中に響いている。
さて、ここで一曲
本日は
oasis
D’You Know What I Mean

アーティスト:oasis
曲タイトル:D’You Know What I Mean
アルバム : Be Here Now
リリース : 1997年
これが、、これが私だ!
私だって時には自分を出すことあるんだぞ!
って感じがして好き
みんなの個性を理解しながら
合う合わないあれども
それぞれの個性を否定せず
尊重しながら
自分の個性を響かせる
一人一人の叡智が集い
個性の音色を互いに調整しながら
調和を目指す
今日も一日お疲れ様です
最高の一日に感謝!
本日もありがとうございました
